幼稚園教諭を少しだけしていた時期があった。幼い子供の教育は、本当に大変だった。子どもの可愛さが分からない訳では無いが、教師側が迷いがあると、そのまま子どもに反映されてしまう。毎日、園庭を駆け回り、他の子とぶつかって喧嘩し、給食の時にカラフルなラムネのお菓子があると、「紅いラッピングのラムネがいい、青がいい黄色がいい。」と口々に言う子どもたちのパワーに圧倒されてしまった。
幼稚園の教育の大きなものに、毎日の「読み聞かせ」がある。最近、あれは単にお話を楽しむだけでは無くて、幼い子供に、世界とはどういうものか、どういう風に生きて行けばいいか、生きて行くのに大事な事は何か?と言うようなことを教える、大事な時間だったという事が分かる。
幼児教育の中で、ハッキリと言葉に無かったように記憶しているが、それは「情操教育」の一環であったと思う。
子供向けの本の中には、アンパンマンや怪盗ゾロリなど一般的な物語もあるが、中に、「児童文学」というジャンルもある。例えば、アンデルセンや宮沢賢治などの童話がそれに当たると思う。アンデルセンは、「幸福な王子」「人魚姫」などの素晴らしい子供向けの文学を残しているし、宮沢賢治も、「よだかの星」「銀河鉄道の夜」など、大人でも一生をかけて理解していくような深い物語を作っている。
幼児期に、様々な童話や言葉に触れることは大事だと思っている。
例えば、アンデルセンの「幸福な王子」を例にとる。(大体の記憶です)
ある国に、金で出来たピカピカの王子様の像が立っていた。王子の像にはダイヤモンド・サファイヤ・ルビーと高価な宝石が沢山あしらわれていた。そんな王子の所に、一羽の可愛いツバメが来て言った、「王子様。こんなにきらびやかなあなたなのに、どうしてそんなに悲しそうなのですか?」王子は、「燕よ。私はここにきらびやかに立っていて本当に悲しいのだよ。私はこんなにきらびやかなのに、町の人々は貧しく飢えている。自分にはどうすることもできない。」燕は、「私は王子様の為になら、なんでもいたします。」と言った。王子は少し考えて、「私のこの宝石をそのくちばしで取って、街の人々に配ってくれないだろうか?」燕は躊躇しましたが、王子の願いを受け入れ、宝石を強くついばんで取り出し、街の人々に配って行きました。来る日も来る日も燕は宝石を運び、王子の体から段々と宝石が無くなって行きました。最後の宝石を配り終わった時、季節は冬になっていました。ボロボロになった王子はやっと安らかで幸せな気持ちになっていました。その傍らで、燕が安らかに雪を被って死んでいきました。
というお話しです。
こういうお話を子どもの頃に読んで、漠然と感動した覚えがあります。今になって、「自己犠牲」ってこういう事なのかな?と「言葉」と関連付けることが出来ます。人間の王子の為に、最後は泡になって死んでいく「人魚姫」の物語や、恩返しのために人間になってお嫁になり、夜ごと自分の羽を抜いて機織りをする「鶴の恩返し」。様々な深い物語を描いている作家がいます。
幼児教育でも、浜田廣介「泣いた赤鬼」など、扱うのに経験と技量が求められる作品があります。「今年の生活発表会(昔のお遊戯会)では、泣いた赤鬼をしたいです。」と申し出たら、園長先生が、「あなたにはまだ無理です。」と判断する教材があります。
子どもの頃、その時は分からなくても、物語で心に響く経験が沢山必要だと思います。また、音楽や絵画など「言葉」以外のもので情操に訴えるものもあるのだろうと思う。
そういう大事な目に見えない教育が、今、忘れ去られていないでしょうか?