「自己犠牲」という言葉について考える。
その時に、以下の仏教のお話しが、頭に登って来た。
昔、ある深い森にウサギとサルと山犬とカワウソが住んでいた。四匹の動物たちはとても賢く、お互い仲良く暮らしていた。ある日のこと、ウサギは他の三匹に「貧しくて困っている者に布施をしよう」と話した。翌日みんなは、食べ物を探し回り布施の用意をした。しかし、ウサギだけは用意する事が出来ませんでした。ウサギは、考えた末に自分の体を施すことにした。それを知った帝釈天は、ウサギの気持ちを試そうと僧侶の姿になり、施しを求めに現れた。ウサギは「薪を集めて火を起こしてください。わたしはその火の中に飛び込みますので、体が焼けたらその肉を食べて、修行に励んでください」と話し、僧侶に火を起こしてもらった。そして堂々と美しい微笑を浮かべながら、真っ赤な火の中に身を投じ、自らの身を犠牲にしようとした。僧侶はウサギの決意が固い事を確かめると、この立派な行いが世界のどこにまでも知れわたるように月の表面にウサギの姿を描き帝釈天の姿にもどって去っていった。その後、四匹の動物たちは月夜になると森の広場に集まり、明日からまた施しが出来るように働こうと誓ったのであった。【解説】・ここには、ウサギの見返りを求めない布施の心が見てとれます。・四種類の異なる動物たちが、仲良く生活している様子が描かれています。・仏教では、布施について三輪清浄といわれます。三輪とは、「布施そのもの」と「布施する人」と「布施される人」のことです。それら三つが清浄であって、はじめて布施が成立するのです。
このお話しの最後は、うさぎは決意が固い事を示した…となっているが、原典はウサギが喜んで、僧侶の為に(ブッダの為に)火に身を投じた…という話だと記憶している。
この話から読み取れることは、「自己犠牲」とは、なんの見返りも求めず、自身のものを喜んで捧げること、究極的には、自身の命をも、「喜んで、布施出来ることに微笑さえ浮かべながら」自分を犠牲にすることだと思う。こういうことは、本当に、誰もが喜んでできる事では無いと思う。ましてや、人に強制することではない。人に自己犠牲を強要するなら、自分が自己犠牲して欲しい。それも「喜んで」して欲しいと思う。
この文章は、仏教の説話から取った。「自己犠牲」などという宗教的な用語は、できるだけその本質を理解し、慎重に使いたいものだと思う。一応自分が考えるに、日常生活で安易に使うものではないと思う。