「ごんぎつね」は1913年生まれの作家である、新美南吉作である。この絵本は、いくつかあるごんつねの絵本の内、もっとも有名な絵本だと思われる。1947年生まれの黒井健の絵である。
新美南吉は宮沢賢治と並ぶ古典的童話作家と言われる。こちらも教科書に掲載されているかと思うが、「手ぶくろを買いに」なども著作にある。
今回、読み聞かせ・幼いころから「お話し」に親しむことが、どういう風に子どもに映っているか?という事を考えたくて、図書館で、「ごんぎつね」「手ふくろを買いに」「泣いた赤おに」を借りて、読んでみた。
大人になって、読む童話は、「こんなにも深い世界だったのか。」「子どもに読んでいる体の絵本だけど、一生のテーマでもある事を描いているんだな。」と思わせられた。
有名な話なのでザッとあらましを書く。
一人ぼっちで家族のいない、いたずら好きの子狐のごんは村に出ていたずらを繰り返しています。ある日、村人の兵十が懸命に獲ったうなぎを、いたずらにびくから取り出して捨ててしまいます。
幾日か経って、兵十の母親の葬儀に出くわしたごんは、「兵十はおっかあに、うなぎを食べさせることが出来なかった。」と後悔します。
その後、ひとりぼっちになった兵十が「俺と同じだ。」と思ったごんは、毎日、栗やまつたけを兵十に届けました。
兵十は不思議に思い、「神様の仕業では…。」などと思います。
ある日、物置で縄をなっていた、兵十は、狐が家の中に入って行ったのをみます。火縄銃で狐を仕留めた兵十。そこにいたのは、栗を持ってきたごんでした。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
というお話しですが…。かなりシュールですね。これを子どもたちはどういう風に解釈するのか。教師側なら何を伝えるのか?凄く、考えさせられます。
私はひとつ思ったのは、いたずら好きのごんは、みんなから厄介者にされているけれど、本当は寂しい気持ちや、人を思いやれる気持ちがある。兵十は、自分が栗やまつたけを持って行っていることに気づかないで、それでも「兵十に申し訳が無かった。」という気持ち、「兵十も自分と同じひとりぼっちだ。」と言う気持ちに突き動かされて、毎日贈り物をします。
でも、兵十は何も知らず、とうとう、「あのいたずらをした狐だ。」とごんを火縄銃で撃ってしまう。ここは、衝撃的と言うか、もう少し色々と勉強して、子どもに伝えるなら、どう伝えるか?というところを追及したいところです。
子ども向けの話しなら、「勧善懲悪」「正義は勝つ」などの教えで、ちょっとねじれてはいるけど、ごんの存在が、兵十に知れて「めでたしめでたし」となってもよさそうです。
でも、新美南吉はそうは描かなかったんですね。「心のない悪者なんているのか?」「知らずに、踏みつけているものがあるのではないか?」と言うようなことが考えさせられます。
また、最後に気になったのは、火縄銃に倒れたごんが、兵十に「ごん。お前だったのかいつも栗をくれたのは。」と言われた時に、「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」と言う部分。ごんは、自分が兵十に撃たれて死んでいくことを、黙って受け入れた…と言う事だと思います。つまり、「ウナギをいたずらしてしまって悪かった。兵十が自分の存在に気づいてくれて良かった。」そのような気持ちだったのか…と思います。
「兵十は、火縄銃をばたりと、とり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。」と言う最後の一文が胸を打ちます。
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