トルストイは「戦争と平和」という大作を残しているが、その中で描かれるのは、戦争で人生を翻弄される人々の出来事と、戦争の悲惨さだと記憶している。そのトルストイの母国であるロシアが、2022年2月24日にウクライナに侵攻した。世界はコロナ禍の最中であった。
今なお、ウクライナへの侵攻は終わることなく、戦争は長期化し、私達日本人には、日常になりつつあるのが申し訳ない気持ちだ。
「日本の教育は、学童や生徒、学生に、この度の戦争や、日本の戦争に対する立場について、きちんと話しているのか?説明できるのか?」ということは非常に大きな疑問である。自分が小学校で7歳ぐらいの時に、オリンピックやテレビなどでよく知っている、ロシアが隣国に攻め入り、「核爆弾を落とすぞ。」と脅迫しているとニュースで知ったら、「どういうことなんだろう?親はどう思っているのか?先生はどう思っているの?」と普通に思うと思う。
しかし、実際には、「核が使用されるかもしれない。」とオロオロするばかりの報道や、いきなり防衛費をあげる(しかも財源は無い)、ミサイルを迎撃する(本当にできるのか?)というような、対処措置が講じられるばかり(それも本当にしているのか怪しい)のようにも見える。
しかし、今回のロシアの侵攻で、「世界は未だ平和には至っていない。」「いつでも、核戦争が起きる可能性がある。」という事がよく分り、ここは、日本人としても、しっかりと考えるべきだと思う。憲法9条の理想、日本の「恒久の平和を念願する理想」は、不断の努力・普段の平和への日々の戦いによってきずかれるものだと思う。
子どもたちに戦争について話すと言っても、今現在大人の私達に話せることは、結論は出ない。なぜなら、人間はその歴史において、常に戦争をしてきた生き物だからだ。人は生存のために、食べ物を得るためだけに動物や他者を殺すだけではない。自分達の所有欲の為に、領土拡大のために、はたまた「殺すために殺す」ために戦争をしてきた。
だから、「何故、人間は戦争をするのだろう?」と言う問いと、「人間が人間である限り、戦争は無くならないのでは?」という問いはセットかもしれない。しかしまた、「だからこそ、『人間は戦争をするものである』ということを凌駕する必要があるのでは?」と思うし、「それは、人間の永遠のテーマではなかろうか?」と思うのだ。
ロシアが今後どういう動きをするかは分からないが、今後も大きな課題を抱えた国であることは間違いないし、もしも核を使用する等という事になったら、第二次世界大戦からの、世界の不断の努力が水泡に帰してしまう事にもなりかねない。プーチンと言う独裁者に、世界が手をこまねいている。本当に怖い事だ。
だから、大人として思う事は、「世界はいつ戦争になるかも分からない。」「自分や家族が戦争で死ぬことがある。」という、平和ボケしていた頭に、喝を入れて、日々を丁寧に送ることが必要だと思う。平和は決して当たり前ではない。
そのことは、第二次世界大戦で散って行った命の事を思っても、本当にそうだと思う。