生きるという事

 こんな大事な事を、うろ覚えで恐縮だが、アウシュビッツを生き抜いたヴィクトール・E・フランクルの著書「意味による癒し ロゴセラピー入門」の中で、フランクルは、「人間は、その悲しみや苦しみを乗り越えた経験から『生きている』と言う実感、『自分を肯定する』という感覚が生まれる。」という一文を残している。

 私はこの一文を読んだ時に、戦慄を覚えた。そして、確かにそうだな…と思った。そして、「人は何かに成功した時、沢山の富を得た時、人よりも優れた時に、『生きているという実感』を持つわけではないのだな…。」と思った。

 高校受験に合格し、希望の高校に入った時、私は全てに虚しさを覚えた。私は、「中学校教育の中で勝った。」と思ったが、その瞬間に、「一体何に勝ったのだろう…。」と思った。私にとって、高校受験はフランクルの言う、「悲しみや苦しみ」には入らなかった。
 逆に、高校を中退し、かれこれ26年になるけれども、それからの時期、とにかく地べたを這いずり回った経験が、今の私を支えている。病気になり苦労して来た。そんな「苦労自慢」が出来ることが、「生きて来た」という証でもある。
 
 ブッダは人生は「一切皆苦」であると言われている。「全ては苦である。全ては思い通りにならない。」と。それは本当にそうである。私の周りには、海外の大学を卒業し、結婚し子どもを持って、幸せそうな方もいる。私も自分の実力を発揮し、世間一般で言う「幸せ・成功」を享受出来たら、どれだけスッキリするかと思う。しかしまた、「そんな世間的な幸せは、私はいいんだ。」という、声なき声が聴こえる。彼らの様に成功していても、フランクルの言葉に心が響くことは無かったはずだ。

 現代日本は、表面上は豊かになり、「不幸せ・貧しさ」とは縁がないようにも見える。しかし、「自己不在感」「自分が何者なのか?何のために生きるのか?」という感覚を持つ人が増えているようにも思う。その現代社会における自己不在感に対する処方は、「生きる苦しみ・悲しみを経験すること」しかないのではないかと思う。私は得難い苦しみを得られて、幸せなのかもしれない。