小説 伊勢物語

日本人の心

 高樹のぶこさん著の、「小説 伊勢物語」を半年くらい前に購入して読みました。装丁が綺麗で、
¥2200しました。
 でも、とても美しくて、栄華を誇った「在原業平」が最後、一人でなくなるのはなんだか寂しかったです。当時の天皇陛下を取り巻く、宮廷の貴族たちは、短歌や、琴・笛・筝・琵琶、歌舞音曲、また歴史や文化に詳しいという教養を身に付けているのが、人々に一目置かれることで、その人となりを表すことでもあったようです。(現代とは、価値観が大分違うのかな)
 例えば、「字が美しいこと」もとても大きなポイントでしたし、女性の貴族は琴や筝を御簾越しに演奏して男性をお迎えして、それが幾晩も続く…ということもあったようです。また、短歌を寄せられたら、美しい字でさりげなく返歌をされたら、「素敵だな」と思いますよね。
 今の、LINEとか、メールもそんな感じでしょうか?よく、こんな、LINEが来たら、そこで引いてしまう…とかいう手合いの記事をLINEの情報で読んだりしますが、もう、40歳も過ぎれば、隠しても無駄ですね。HOW TO の問題ではないのだと思います。

 業平は位の高い貴族の方に「正妻」として娘を貰ってやってくれないか?と言われて、断りきれずに、一夜を共にしますが、どうにも興味を持てず、「正妻」とは名ばかりで、子どもも設けたものの、他の美しい女人たちに興味が行って、しかも、その正妻も「業平さまの良いようにしてくれていい。」と思えるような思い入れですし、業平も適当にしていたのだと思います。

 それで、業平の話しでは「高子姫」との恋が一番大きく取り上げられていて、二人で駆け落ちするんですね。小さい高子姫を負ぶって、業平は逃げて、その「駆け落ち」は高子の兄たちに阻まれて、失敗します。その時の事を、「白玉か何ぞと人の問ひし時 つゆと答えてきえなましものを」詠んでいます。

二人で逃げていた時に高子さまが、『あれは白玉ですか?』と尋ねられた時に、あの時に、「露ですよ。」と答えてそのまま、私も露のように消えてしまったらよかった。

の意味ですが、はあ、なんか、「身分違い」とか「不倫とか」、「駆け落ち」とか昔の人って、上品そうでやってること激しいよな。と思いますが、それを全て和歌にしていて、在原業平とは、「実在の人物」ではあるようで、数々の美しい歌が残っています。ただ、源氏物語とは違って、作者不詳の様です。

昔は、「高子様」とかの方に女性として憧れたかなと思いますが、正直、今は「正妻」になったものの適当にあしらわれていた「和琴の方(和琴という琴よりひとつ大きい楽器を演奏されるが、その出来が良くなくて、業平はがっかりしてしまう。)」の方がなんとなく、同情を誘うと言うか、夫の帰りをただ待つ妻…っていう図式が、可哀そうですね。
 このことは、業平も後に物凄く反省していて、自分は財力や才能、眉目秀麗であったこと、地位などから、沢山の女人に愛されたけれども、本当に公式に妻に迎えた人は一人だったし、あの人が「見目形や才能が感じられないからと言って、冷たくしていたのは、本当に恥ずかしいことだった。自分の子供まで産んでくれたのに、本当に情けない。」というように思われたようです。

 平安時代の貴族って、すごく雅だなと思いますし、例えば、私は出来ませんが、「物腰が柔らかい」とかそういうことも価値の一つですね。「上品」「下品」という言葉もありますし、時代が変われば、価値観が変わります。「業平」の本にも、平気で「物の怪」「悪霊」が出てきます。これは、今一度、現代人が学びたい感覚かもしれないですね。