「カラマーゾフの兄弟 全五巻」最終章のエピローグを2日前7月28日に読み終え、興奮の内に、今朝、訳者亀山郁夫さんの、「ドストエフスキーの生涯」「解題」を最後まで読むことができた。
私は、この作品を読み終えて、色々な発見や感動があったが、「何故、今私はドストエフスキーを読もうと思ったのか?自分は、自身の人生の上で、ドストエフスキーの見た境地を少しでも理解しているのだろうか?」と言う事を思う。
私は読書が、割と好きなんだと思う。小学校の時に学研の「科学」という教育雑誌を両親が月刊で買い与えてくれていたが、その中で「ギリシア神話」などに触れたり、小学校1年生の時に母に買ってもらった、「イソップ童話」は何度も読み返した。
そういった流れで、小学校の時には少年少女文学全集、中学校の時には「嵐が丘」「ジェインエア」などの古典はさることながら、横溝正史、江戸川乱歩、アガサクリスティーなどの推理小説にはまったし、その延長で友人たちの読んでいた、赤川次郎などの現代作家も読んだと思う。(なんだかそれぐらいしか覚えていない)
しかし、高校入学から中退に至るまでに、私の読書熱は冷めて行き、「自分は自分の人生を生きていないのに、読書ばっかりして何になる?」という疑問が出て来た。
その頃、「ソフィーの世界」と言う哲学入門物語が流行ったが、高校ではそういう本を読破している子もいた。他には「アルジャーノンに花束を」とかが流行っていたかな。なので、「読書量を競い合う」という馬鹿馬鹿しい虚栄心が持ち上がったこともあり、自分が嫌になっていた。その頃から、読書が苦痛になった覚えがある。
その後、アメリカで少し勉強していた半年があったが、その頃は学校を辞めた虚無感、行き場のない感じを埋めるために、シェイクスピアや夏目漱石、トルストイなどを読んで心を慰めた。そういえば、学校を辞めて、東京の祖母の家に、「家出」をしていた時期には、何故か遠藤周作の「マリー・アントワネット」を読んだ。
それから、22年間、ゆっくりと読書をして、喜びに浸る時間は無かったと思う。それは、単に私は人生で「行き場」を無くしており、精神疾患に侵されて、常に本の中の登場人物を引き比べて、以前以上に「人生を生きられない。生きていない。」自分に気づかされる恐怖からだったと言えると思う。
この数年に、私は精神疾患の根本原因である出来事が段々と整理されて、「私は私の人生を行っている。誰かに隷属するとか、こうあるべきという固定観念に縛られなくていいし、42年の生き方の中で『自分なりの信念・真理を探していたのだ。』」という気持ちを持つことができた。
私は「真理を探している。」という言葉は、今回の読書で、アリョーシャが「真理を探し求めて、革命家になる。」という未完で終わった「カラマーゾフの兄弟」の第二部のプロットに関して、亀山郁夫氏が書いている所で、得られた。
私には数名の師がいるが、今に至るまで、自分に完全にフィットして、完全に「救い」になるものは無かった。それは当然のことで、全ての人間はそれぞれの宇宙にいるのだ。(釈迦の言葉)
だから、これからは、自分は「高校中退生だから。」とか「自分は○○教を信じているから」とか「自分は○○さんを信じているから」とかそういう基準で、生きるのを止めにしたい。それは、本当は人間全体に言えるだが、多くの人はそういう風に考えないし、そういう風に考える事は、本当はとても危険な事だと思う。
しかし、それでは「何を信じて生きて行くのか?」それは大きな、大事な課題だ。キリスト教を信じるのか?仏教を信じるのか?それとも、新たな境地を切り開くのか?
私は「神(全知全能の神が世界を作られた)」という具体的な部分をそのまま信じている訳でない。「神と言う人間の姿をした個人が世界を作った」という考え方は現代において無理があると思う。しかし、「けしの実一つ」とっても人間は、「作ることは出来ない」。クローン技術によって、細胞を増加させることは出来るかもしれない。でも、「細胞そのものを作る」ということはとても出来ないのだ。
世界に「けしの実」を出現させた、その「力・パワー」こそ神だと思うし、それは「実際にある訳だから、信じるしかない。」
そういう意味で「この世を作った、パワー(神)」は確実に存在すると思っている。人類が大地から離れて、頭の中で理屈をこねくり回すようになって、全てが「分からなくなってしまった。」誰が、何が、太陽を東から昇らせ、西に沈ませるのか?そういう意味で、「人知の及ばない」世界である事を、ちゃんと知るべきだと思う。
ドストエフスキーは「神がいるのか、いないのか?」と「カラマーゾフの兄弟」の中で何度も問うている。あえて、私流に言うなら、
「神は『ある』。」「神は存在している。」と言う表現になると思う。「いる」と言うのは、「人間として『いる』。」なのだろうが、それは適切な表現ではない。もっと言うと、「神」という「言葉」がどこまでを表現しているのかは、解釈が分かれるだろう。「神=イエス・キリスト」だとして、その人物がいたかどうか?はおそらく、「古代エルサレムに生まれ、いた」のだろうが、その「イエス・キリスト自身が」今現在もいるか?というとどうだろう?地球上にはいないし、もうその姿は「人間」では無いのではないだろうか?と普通に思う。
また、もう少し考えを深めると、私達「罪深い私達」一人一人も、やはり、「けしの実を作った、力・パワーで生まれ・生かされている」ことは、本当に大事な事実である。
大きな話題になったが、ドストエフスキーの世界観は、そう言った壮大なものだし、こういう話になって当然のことだ。
そう言ったことを、考えた、2か月の「カラマーゾフの兄弟 全5巻」の読書だった。
個人的には、「皇帝暗殺を企てるテロリスト」なると暗示されているアリョーシャが、最後まで人を殺める事の無いように、「あっと言わせるような」結末が待っていたことを願っている。