今日、仏教を学んでいて、「親ガチャ」という言葉が出てきた。「格差社会」の若者の本音として生まれてきた言葉のようである。
その中で「両親」の事を、「両親」というかけがえのない「縁」に「過去生」からの「宿業」で「生死の苦しみを漂う私達」が出会う事ができて、私達が二人の子どもとして生まれる事が出来た。…という「因縁生起」の教えで例えられていた。
また、仏教には「盲亀浮木」という例え話があり、人が1人生まれてくるということは「100年間深海を漂っていた亀(子ども)が、ふと海上に頭を出したときに、偶然、浮かんでいた丸太(両親)の中に頭を入れた」…それくらい、尊い、困難な、「有難いこと」なのだそうだ。
お釈迦様は、生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と仰られたというが、その真意は「自分がこの世で一番偉いんです!」などという意味ではなく、
「天上天下➡この大宇宙で・唯我独尊➡我々一人一人に、たった一つの尊い使命がある」という意味で「その事を私は説くために生まれてきた」という意味だと説かれていた。
この話で、私は「なるほどな」と思った所があるのだが、「唯我」の「唯一人」の所で、人は「両親」より生まれ、育てられ、親の顔色を見ながら育つわけであるが、本来、肉体をいただいた「縁」や生まれてからの「縁」はあるのだが、1つの個体、「魂・霊」としては、「唯我(唯一人自分)、独尊(唯一人で尊い)」ということになり、親とは全く別の物ということになるのでないかな?と思った。
仏教で「魂・霊」をどのように説かれているか分からないのだが、「輪廻転生」はあると説かれている。
子どもの頃は、「親ガチャに外れた」どころか、「私はこんなに恵まれていて良いのだろうか?」と悩んだことがある。中高になると、母に対しての反抗心なども芽生えたし、実際に高校中退した後に、「両親(特に母親)との関係」を指摘されたことがある。「母親はあなたを愛していない」と言われたりして、そのことを鵜呑みにしてしまっていた。しかし、以上の事で考えると、親と子供は「縁」はあれども、全く別の個体で、「親にしても」扶養の義務はあるにせよ、「子どもは全く別の魂を持っている」ことを頭に入れていた方がいいのかもしれない。
そういう意味で、私もこの世のあまたの命・魂の一つで、全宇宙の中で、皆と一緒に、地球で日本でここで生きていると思うと、なんだか、「ふーん。」と納得してしまった。
愛についてはなかなか、まとめる事は困難だが、「見守る」というのも一つの愛で、いつもいつも一緒にいる事ではないし、本当に愛しているならば、「自分はもう消え去ってもいい」と思えるような境地だと思っている。
ディケンズの「二都物語」にシドニー・カートンという主人公が出てくる。詳細はあやふやだが、愛している令嬢の為に、革命時断頭台に立つことになった、その令嬢の愛する婚約者の代わりに(少し似ていたような設定)、その婚約者もよく分からないタイミングで、彼と入れ替わって、自分は断頭台に立つ…という話だ。
彼は、「自分のような地位も金もない者が、彼女と沿うことは出来ないことも、彼女もそう思う事」も分かっていたし、気持ちを伝える事すら、「さりげなく」しかできなかったかと記憶している。彼女にしてみればフィアンセが帰ってきて、「誰が助けてくれたのかしら?」というような感じで、夢にもシドニー・カートンが「身代わり」になったなどと分からないのである。
まあ、そんな愛は地球上なかなかないので、難しいが、そういう高尚な愛を、描いたディケンズも凄いなと思う。